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『小さなトロールと大きな洪水』――忘れられていたムーミン最初の物語【本国ブログのサイトから】
トーベ・ヤンソンの最初のムーミンの小説『小さなトロールと大きな洪水』は、1945年に出版されました。この本には、後にトーベが世界的に有名になるきっかけとなったキャラクター「ムーミン」が登場し、ムーミン一家の家族の歴史もかなり詳しく描かれています。
「最後に、みんなは小さな谷にやってきました。この日見たどんなところよりも美しい谷です。その草地のまん中に、タイルばりのストーブにそっくりの家が建っています。とてもすてきな青いペンキがぬられた家です」
『小さなトロールと大きな洪水』(トーベ・ヤンソン/作 冨原眞弓/訳 講談社)
これがムーミン谷とムーミンやしきがはじめて登場したときの描写です。『小さなトロールと大きな洪水』の最後に、まるで魔法のようなイラストとともに掲載されています。
驚くのは、この本が最初に出版されたムーミンの物語で、ムーミン一家がどうやってムーミン谷に辿り着いたかを描いているにもかかわらず、ムーミンシリーズの中ではいつも少し複雑な位置づけだったことです。まず、この本は出版当時ほとんど注目されず、初年度はわずか219 冊しか売れませんでした。ようやく英語に翻訳されたのは2005年でした。また、この物語は、スタイルや内容の違いから「ムーミンシリーズ」としてではなく、壮大な「ムーミン世界の創世神話」とか、 8 つの正式なムーミン小説の序章として扱われてきたのでした。
原書のスウェーデン語のタイトルは「Småtrollen och den stora översvämningen」です。出版社は、トーベの創作した「ムーミン」という言葉が、想像力豊かすぎて読者には伝わらないと考え、「ムーミン」の代わりに「小さなトロール」を意味する「Småtrollen」が選ばれたのでした。
それでもこの本は、後に世界的に有名になるムーミントロールの初期のキャラクター造形やテーマを見ることができ、ムーミンシリーズを発展させていく中で、トーベのアイデアやアートワークがどのように進化していったかを示してくれます。
ムーミンの歴史と未来が垣間見られる物語
『小さなトロールと大きな洪水』は、ムーミンママとムーミントロールが、ニョロニョロたちと旅に出てしまった行方不明のムーミンパパを探して、大洪水によって生まれた美しいムーミン谷にたどり着くまでの旅の物語です。彼らは不穏な森と大洪水の中を進んでいって、次々と起こる予期せぬ出来事に立ち向かい、その途中でヘムレンさんやニョロニョロたち、そして実は幼いスニフである「小さな生きもの」と旅をともにするなど、たくさんの変わった生きものたちに出会うのです。
確かにこの物語には、ムーミン族の歴史が詳しく描かれています。たとえば物語の中で、ムーミンママはムーミントロールに、ムーミンたちがかつては背の高いストーブの後ろに住んでいて、セントラルヒーティングが使われるようになったために追い出されたことを話しています。
「まだそこに住んでいるムーミントロールたちもいるのよ」
ママはいいます。
「もちろん、ちゃんとしたストーブがあればの話だけれどね。セントラルヒーティングの暖房は居心地がよくないから」
『小さなトロールと大きな洪水』(トーベ・ヤンソン/作 冨原眞弓/訳 講談社)
なるほど、これがムーミンたちが塔のような建物に住むのが好きな理由なんですね!
また、ムーミンたちが11月から4月まで冬眠するという重要な伝統も紹介されています。これは、後に『たのしいムーミン一家』でこのように説明されています。
寒さと暗さが好きでないものには、うまいやり方ではないでしょうか。
(『たのしいムーミン一家』トーベ・ヤンソン/作 山室静/訳 講談社)
トーベは、1945 年にこの最初の本が出版されたとき、すでに評価されるべきアーティストでした。それは彼女が最初のムーミンの冒険物語を、繊細なセピア色の水彩画と、ペンと線による美しいインク画を巧みに組み合わせて描いたことからもわかります。
ムーミン谷が生まれたきっかけは戦争
この物語が書き上げられた時代背景と世界情勢を知らなければ、『小さなトロールと大きな洪水』を深く理解することはできません。安全で美しいムーミン谷を発見するという奇跡は、それとは対象的な、洪水が象徴する不確実性、そしていなくなってしまった家族であるムーミンパパを探す旅から生まれるものなのです。
トーベは戦争ですべての色彩が奪われてしまったように感じていました
トーベは、1939年から1940年にかけてフィンランドとソ連の間で行われた、冬戦争の絶望のさなかに最初のムーミンの物語を書きました。戦争によってすべての色彩が奪われてしまったと感じていたトーベは、幸せな結末を迎える物語を書く必要がありました。この物語は、戦争の暗い影から逃れるために描かれたのです。
ムーミンの最初の物語には、危険、脅威、恐怖が描かれています。それは、この本が書かれた当時、人々の生活の中で感じていたものでした。喪失と悲しみ、そして今より良い未来への切望は、戦時中の現実でした。この本は、災害とそれを生き延びる物語であると同時に、家族の物語であり、家族がどのように成長し作られ、安心して住める素敵な家を見つけるかという物語でもあるのです。
多くのムーミン研究者は、当時の恐怖がムーミンの物語のインスピレーションになったと語っています。ムーミン谷とはトーベが生きていた現実世界とは別の世界、つまり安心でき、受け入れられ、愛されていると感じられる場所としての役割があったのです。
『小さなトロールと大きな洪水』についてのミニドキュメンタリーはこちら
ムーミン出版80周年
2025年は、1945年に『小さなトロールと大きな洪水』が出版されてから80周年です。Sort Of Booksは『小さなトロールと大きな洪水』の記念特装版を出版しました。この版には、トーベが1950年代にデザインした、カラーのムーミンハウスのポスターと、ムーミンに関する彼女のメモがついています。フランク・コットレル・ボイスによる序文も収録されていますよ。フィンランド語版とスウェーデン語版もあります。
『小さなトロールと大きな洪水』の後、8 冊のムーミン小説が続き、3 冊の絵本と新聞連載の漫画も描かれました。『小さなトロールと大きな洪水』はそれほど人気が出ませんでしたが、次のムーミンの物語『ムーミン谷の彗星』は 1946 年にはすでに出版されていました。ムーミンの物語を書き、描くことで、トーベは自分を表現する新たな手段を得たのでした。
ムーミン、トーベ、そして作品の背景を最も包括的にまとめている資料の 1 つが、ボエル・ウェスティンの著書『トーベ・ヤンソン 人生、芸術、言葉』(畑中麻紀・森下圭子/訳 フィルムアート社)です。これは、2007 年にスウェーデン語で最初に出版され、2014 年に英語に翻訳された公式の評伝です。
この本は、トーベの人生のさまざまな要素をまとめています。家族を助けるために勉強を中断しなければならなかったこと、暗い戦争の時代、自分のアトリエを持つアーティストとして独立したこと、ムーミンに熱中した日々、そして晩年の小説の執筆までを扱っています。
「愛と仕事」はトーベが自ら選んだモットーであり、その二つに対する彼女のアプローチは喜びに満ち、妥協を許さないものでした。この本は、トーベの仕事が、この人生の信条をどのように映し出しているかを描いています。
翻訳/内山さつき